伝統と校風の確立期
(明治44年~大正12年)

― 時代の概要 ―

 浄光寺の間借りからスタートし、太田中学校として10周年を迎えた頃には、施設も人材も充実して「久慈・多賀郡の俊才を集めた「珂北唯一の学者」と称されるまでになった。遠隔地からの入学生のため「寄宿舎」が作られ、舎監の教師家族と10名余の生徒が、家族的な共同生活をしていたのもこの頃である。
 明治43年(1910)年の「大逆事件」を機に日本の社会運動は「冬の時代」といわれる閉塞期に入るのだが、太田中学はむしろこの時期に発展・隆盛の気運を迎えたと言えよう。
 桜花をあしらった校旗が制定され、それが第一回卒業生より寄贈されたのが大正3(1914)年で、翌大正4年には「城の名に負う・・・」で始まる校歌が、武島羽衣(作詞)小松耕輔(作曲)によって作られている。歌詞を丹念にたどると、大正デモクラシー勃興期の市民の息のぬくもりのようなものが伝わってくる。
 第一次世界大戦(1914~18年)ロシア革命(1917年)、3・1独立万歳事件(1919年)、5・4運動(同年)、シベリア出兵(1918~22年)など、20世紀を象徴する大事件が陸続きと生じ、世界はベルサイユ体制といわれる再編期に入っていた。外にウィルソン米大統領が「民族自決」を、内には吉野作造が「民本主義」を唱えている。
 漸く台頭した自由な風潮の中で、鈴木九萬(第10回卒。旧制一高・東大から外務省入省、元駐イタリア大使)、渡辺寧(第10回卒。旧制一高・東大卒。東北大学教授をへて静岡大学長。文化功労者)などの逸材を生だす一方、ストライキが行われ、校長が引責辞職するという事件もおきている。
 大正9(1920)年、10年と学級増が行われ、大正10年の学級数は13級、生徒定員は650名となり、名実共に「県北の雄」として令名を高めていた。

  • 1911年
    (明治44年)

    • (7・31) 中学校令施工規則を改正(撃剣、柔道) (寄宿舎)
  • 1912年
    (明治45年)

    • (10・23) 東京より宣教師ヘーギン及びテーヴィニ氏来校、講堂にて英語演説
  • 1913年
    (大正2年)

    • (10・25) 南極探隊員池田政吉氏の講演
  • 1914年
    (大正3年)

    • (9・5) 第1回卒業生より校旗を寄贈される
  • 1915年
    (大正4年)

    • 校歌制定(作詞・武島羽衣、作曲・小松耕輔)
    • (5・12) 箱根方面修学旅行(4泊)
  • 1917年
    (大正6年)

    • 「臨時教育会議」中等および高等教育機関の改革
  • 1918年
    (大正7年)

    • 一科目50点の及第点が40点に改められた
  • 1919年
    (大正8年)

    • 「中学校令」を改正「特に国民道徳の養成に力むべきものとする」を追加
  • 1920年
    (大正9年)

    • (4・1) 11学級を12学級に復し、生徒定員[600](官立水戸高等学校の設立)
  • 1921年
    (大正10年)

    • (4・1) 12学級を13学級とする 生徒定員[650]
  • 校旗・校歌の制定
  • 校旗・校歌の制定
    校旗は、大正3年第1回卒業生が卒業10周年を記念して寄贈したものである。続いて大正4年躍進太中のシンボルとして、作詞武島羽衣、作曲小松耕輔の両氏によって太田の歴史と伝統をおりこんだ太中魂にふさわしい校歌が制定された。至誠・剛健・自治の校訓も太中の気風を象徴するものといえよう。
  • 益習会報
  • 益習会報
    益習会報は、創立10周年を記念して第1号が発刊され、第2号は、大正5年1月30日創立15周年記念として発刊された。この時期になると卒業生の数も600名を超え各方面にわたり多彩な活動を続けていた。発刊の辞の一節に、「・・・進歩の形跡の認むべきもの少なからず、努力の空しからざるを知り、ひそかに以て喜悦の情を覚ゆる所なり。然れども之れもと永遠の事業なり。此の如きは、只夫れ進むべき道の第一歩に過ぎず。・・・」とあり、誠に格調高きものである。
  • 渡辺 寧先生
  • 渡辺 寧先生
    先生は、太中10回卒で半導体研究の成果により文化功労者として国より顕彰された。大正3年太田中学卒業後一高に進み、同10年東大電気工学科を卒業された。卒業後東北大電気工学科に奉職、39年間教職にあり、後静岡大学長として9年間、合わせて48年間電気工学の研究一筋に没頭した著名な学者で、当校の誇りである。元駐伊大使として活躍した、鈴木九萬氏とは常に首席の座を争う秀才で親友だった。2人とも同時に難関の一高入学試験に合格した。