施設設備の新旧交代
(昭和36年~45年)

― 時代の概要 ―

 昭和36年から45年の10年間の歩みというものは、まず校内環境の大変革から始まる。昭和35年の9月に武藤建設(k)の手により体育館が着工され、バレー、バスケット2面、バトミントンが6面とれる県内でも屈指の施設として羨望のまとであったという。
 昭和41年の7月には弓道場が講演会ら寄贈され、元本校職員故蘇原二良氏を招いて道場開きが行われた。翌42年7月、25mの7コースを有する待望のプールが完成した。同じく12月には野球のバックネットが後援会より贈られて、練習中のボールが外へ飛んでいくこともなくなり、部員もこれで隣家に迷惑をかけずにとホッと一息ついたことであった。
 さて、校内環境で大変革はなんと言っても創立70周年の記念事業として44年11月着工され、翌年11月に完成した新校舎であろう。4階建ての永久校舎は校内の雰囲気を一新させ、創立当時の木造校舎が次々と姿を消さなければならない運命となったのは、古い学舎で巣立った卒業生にとっては寂しい限りである。一方戦後のベビーブームに生まれた子供たちが入学したのは、昭和37年4月からで1クラスの定員が55名で寿司詰めの状態で現在の45名定員と比較すると隔世の感がある。昭和38年から農業科の募集が停止され、9クラスすべて普通科になった。農業科は昭和24年4月に設置され、その間約800余名の卒業生を世に送り出して、40年の3月に姿を消したのであった。
 昭和38年度は新教育課程に移行した年でもあった。数学は代数・幾何の名称が姿を消し、理科には地学という科目が認けられ、体育には種目として、剣道や柔道といった武道が義務づけられ、ようやく日本独自の教育理念が生まれつつあった。

  • 1961年
    (昭和36年)

    • (10・21)  創立60周年記念式を挙行(記念誌発行)
    • 講堂兼体育館竣工
  • 1963年
    (昭和38年)

    • 教科書無償措置法設立
    • (農業科募集停止)
  • 1964年
    (昭和39年)

    • 体育の授業に剣道と柔道が加わる
    • 校内マラソン、片岡千秋初の三連覇なる
  • 1965年
    (昭和40年)

    • 「紀要」発行
    • 中教審「期待される人間像」中間発表
  • 1966年
    (昭和41年)

    • 茨城県高校編成審議会第1次答申
    • 中教審「後期中等教育のあり方」答申
  • 1967年
    (昭和42年)

    • 全日制普通科1350名、定時400名
    • (8・3) 教委、通学区域に関する規則改正、区外30%
  • 1968年
    (昭和43年)

    • 校舎改築等70周年記念事業
    • 実行委員会結成
  • 1969年
    (昭和44年)

    • 校舎改築第1期工事着工
    • クラス別遠足、たてわりホームルーム
  • 昭和41年度全国学校総合体育大会
  • 昭和41年度全国学校総合体育大会(於 八戸市)に出場したバレー部である。石川主税経論の指導のもとにバレー部の活躍は目ざましかった。現在、当時部員として活躍した多くのOBは、教育職等に就き、指導者として貢献している。
  • 25メートル7コースのプール
  • 昭和42年7月には、25メートル7コースのプールが完成した。シーズンともなれば、元気に泳ぐ河童連の笑顔が明るい。近くの川を利用して練習していた水泳部員にとっては夢のようであり、本校正にとっても待望の施設であった。
  • 野球バックネットが後援会から寄贈
  • 野球部にとって大変喜ばしいことが起こった。野球バックネットが後援会から寄贈されたのである。昭和42年の12月のことであった。また昭和43年10月には運動用室外照明が新設されている。昭和45年秋の新人戦では、県北地区を勝ち抜き県大会に出場したが惜しくも準決勝で敗退した。
  • 航空写真でみる太田
  • 常陸太田市は、太田駅付近を出発点にして本校に道路沿いに歩んでいくと、鯨に似た岡になっていることがわかる。太田の中心街はこの岡の上にあり、発展してきた。本校は、その鯨が岡の頭あたりに位置するかも知れない。航空写真でみる太田は、鯨が勢いよく泳いでいるようにも見える。
  • 昭和5年に完成した温室
  • 校舎・校庭全景の航空写真。この写真と現在との相違は、校門右側に2階建てのバイク・自転車置場が出来た(昭和62)。重層構造の体育館が竣工(昭和63)。弓道場が竣工(平成元)などである。