多様化する教育活動
(昭和46年~55年)
― 時代の概要 ―
まず国際情勢の面から見ると、46年の中国の国連加盟を期に、50年のベトナム戦争の終結、54年のアフガニスタンへのソ連軍侵攻等、国際的に大きな変化が見られた。また、国内においては、49年金脈問題で田中首相が辞任したのをはじめ、51年ロッキード疑惑等、政治的混迷の時代であった。経済社会面では、48年アラブ産油国の石油輸出規制を期にオイルショックがおこり紙不足・商社の買い占め等、物価上昇をまねき、省エネルギー対策インフレ防止がかだいとなった。大学紛争は、質的に変化し、学外闘争が中心となった。また、高度成長の代償として生まれた公害問題が一般の関心を引くようになり、46年のイタイイタイ病の住民勝訴を期に開発・企業中心から国民の生活を守る方向へと変化していった。文化教育面では47年高松塚古墳で壁画発見を期に古代史ブームを呼んだ。高校進学率が全国で45年に82%、58年には93%と高まり、高校の増設の必要性が高まり、教育内容の多様化が進んだ。57年から実施された指導要領では、高校の多様化にともない弾力化とゆとりある学校づくりがめざされている。一方大学入試では、54年に国立共通一次制度がはじまり二次試験が多様化するなど各大学・学部の個性がよりはっきりしてきた。さて最近10年の本校の動きを見ていくと、施設・設備は50年の運動部室、54年特別教室棟等、県内有数の施設を誇るようになった。51年旧講堂が国の指定重要文化財になり保存されることになった。主な学校行事として、全入クラブ制、リーダー研修、日米交流プログラム等がある。49年の茨城国体を期に運動部の活躍にはめざましいものがある反面、一般社会の動きに影響されて無気力、無責任、無関心の三無主義が入り込んできた。この10年間は大学進学率の高まった年間でもある。大学を出ても就職難となり、社会は徐々に実力優先へと移行していった。本校においても、進学者と就職者の区別がはっきりとし、進路の多様化が進みつつある年間と言える。
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